地域と深くしっかりとつながる医療が
災害に屈しない底力を生む。

case03 岡山県 医療法人和陽会まび記念病院 様

2018年7月7日、私たちは信じられない光景を目にしました。テレビから流れてきた映像は、見渡す限り水没した町。自衛隊のゴムボートによる必死の救出活動が展開され、疲労困憊した人々の様子が映し出されていたことは、まだ記憶に鮮明に残っています。場所は、岡山県倉敷市の北西部にある真備町。

その中心部で町内唯一の一般病院として地域医療の中核を担っていた「まび記念病院」も、甚大な被害を受けました。今回は、医療と災害をテーマに、まび記念病院が実際に歩んだ被災時から復興への道のりをお届けします。

ひとつの町の中心地が、湖のように水没してしまった、
100年に一度の水害。

平成最悪の水害となった西日本豪雨。特に、岡山県、広島県、愛媛県の被害は甚大で、多くの水害と土砂災害が発生しました。中でも真備町のある倉敷市は、堤防の決壊と越水による広域な浸水が起こり、死者62名 ※うち関連死10名(岡山県内79名 ※うち関連死18名) ※以下同、重傷者9名(16名)、軽傷者111名(161名)、住宅全壊4,646棟(4,830棟)、半壊846棟(3,365棟)、床上浸水116棟(1,541棟)、という甚大な被害を引き起こしました。
※岡山県発表データ参照(2019年7月時点の数値)
さまざまな原因が報告されていますが、特筆すべきは、倉敷市の高梁川や小田川の上流流域に降った総雨量。岡山地方気象台によると、岡山県内24市町村に大雨特別警報が発令された7月6日の雨量は、県内25観測地点のうち18地点で観測史上最大を記録しました。防災科学技術研究所は「100年に1回程度の非常にまれな大雨だった」と分析しています。

※参照元
・気象庁 過去の気象データ検索参照
・岡山県発表データ参照
7月7日未明から朝にかけ、小田川とその支流の堤防が次々と決壊。真備町地区では3割に相当する約1,200haが浸水したとされています。最大水深は、5.4m。電気や水道、ガスなどのライフラインも次々と止まる中、真備町で唯一の中核病院の「まび記念病院」には、最大で335名におよぶ避難者と患者、職員が救出を待っていました。

苦難を乗り越え、2019年2月に被災前以上の医療・入院設備を整えて再開したまび記念病院の復興の様子から、「医療と地域のあるべき姿」と「これからの防災の教訓」を求め、現地を訪問しました。

2018年7月6日~8日にかけてのできごと

7月6日
22:00 真備地区全域に避難勧告が発令
22:40 倉敷市など8市町に大雨特別警報
23:30ごろ 総社市にあるアルミ工場から爆発音
23:45 真備地区(小田川の南側)避難指示発令
7月7日
0:47 国交省岡山河川事務所が倉敷市に小田川の越水を連絡
1:30 真備地区(小田川の北側)避難指示発令
6:52 小田川の東部で堤防が約100mにわたり決壊を確認
7:00ごろ まび記念病院の1階で浸水が始まる
8:00ごろ まび記念病院で断水
8:30ごろ まび記念病院で停電
12:00ごろ まび記念病院の1階が水没
12:30 小田川の西部で堤防が約50mにわたり決壊を確認
15:10 岡山県内の大雨特別警報解除
7月8日
10:00ごろ 自衛隊ボートや岡山のドクターヘリが到着
11:30ごろ 災害支援NPOがまび記念病院に到着
15:30ごろ NPOのヘリコプターによる避難開始
21:00ごろ 職員含む全員の避難完了

DATA まび記念病院

所在地
〒710-1313 岡山県倉敷市真備町川辺2000番地1
内科、外科、リウマチ科、小児科、眼科、整形外科、泌尿器科、皮膚科、呼吸器内科、 人工透析内科、リハビリテーション科、循環器内科、放射線科
許可病床数
80床(一般病床 60床、地域包括ケア病床 20床)
透析コンソール
35床

DATA むらかみクリニック

所在地
〒710-0253 岡山県倉敷市新倉敷駅前3-3
内科、循環器科、泌尿器科、眼科

DATA 泉リハビリグループ

所在地
〒719-1155 岡山県総社市小寺995-1
内科・外科・整形外科・リハビリテーション科
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Made for Life Special -前編- 「被災した病院の再起」

豪雨災害に見舞われた医療機関の奮闘

お話いただいた方

まび記念病院 理事長
むらかみクリニック 院長
村上和春

まび記念病院 院長
村松友義

まび記念病院 事務長 国重純弘

まび記念病院 放射線部 技師長
むらかみクリニック 放射線部 技師長
小村武彦

キヤノンメディカルシステムズ株式会社
中四国支社 フィールドサポート部 技術担当主任
網本隆典

災害発生時の状況変化

7日の早朝は、雨も上がり晴れていた。
突然、9時頃から一気に水かさが増し、12時には1Fがすべて水没した。

村上理事長
報道では、7日に水没してからの様子がクローズアップされていますが、実際には大雨が降り続いた6日深夜から、さまざまなことが起こっていました。私は22時頃に回診を終え、車で帰路についたのですが、前がまったく見えないぐらいの大雨。途中、職員からかかってきた電話は、雨音でほとんど聞こえないほどでした。23時半頃、和陽会グループの病院や介護施設を見回ってくれた事務長から、「現在は浸水していない」という報告を一旦は受けたのですが、その直後、大きな爆発音が聞こえたのです。もの凄い雨音の中、聞こえるほどの音量ですから、直観的にこれは大ごとになると思いました。しばらくして、総社のアルミ工場が爆発し、負傷者と避難の人が27名来ていると連絡を受けました。
治療や収容が続く中で、箭田など真備の西部が浸水するかもしれないという情報が飛び込んできたのは、日が変わってすぐのこと。当時、和陽会は、まさにその箭田にクリニック併設型の介護施設を展開していたので、何よりも入居されている24名の高齢者の方々が心配でした。通常、夜間は介護士1名の体制でしたが、近隣の職員にお願いして3名体制にした直後、箭田地区は一気に浸水し始めました。
その間もずっと雨が降り続いていたため、2時過ぎに自宅を出て病院に向かいました。しかし、小田川に架かる橋が一切通れず、かなり迂回してなんとか真備に入ったのが午前5時のこと。通常は30分で到着できるはずが、3時間もかかってしまったのです。この頃には雨もあがり、病院周辺は何の問題もない状態でした。
一方、箭田の施設は、2階まで浸水が進んでいました。施設に向かおうとしたものの、すでに途中の道が浸水していて、どこからも近づけない状態。正直、もうダメかもしれないと思いましたし、何よりも前日までに避難を指示できなかった責任を痛感しました。そんな状況の中、3名の職員は入居者さんの全員を屋根にまで上げ、ずり落ちそうになっても必死につかみ上げ、救助まで耐えてくれたのです。入居者様には申し訳なく、職員達には感謝の念しかありません。
病院の浸水は、7時頃から始まりました。ゆっくりと水かさが増し、8時頃に断水、9時前に電気が止まり、そこから一気に水がやってきて1階のすべてが水没しました。電気が止まる9時までに、据え付け型ではない動かせる医療機器、たとえば超音波診断装置や眼科で使う機器などをエレベーターで2階に避難はさせましたが、一般X線撮影装置やCT、MRI、マンモグラフィ装置などは水没してしまいました。
災害発生時の院内の様子

誰もが医療人としての誇りを持ち、自主的に災害に立ち向かった。
8日の日中に、すべての入院患者と避難者を送りだすことができた。

村松院長
私も6日の深夜は病院から帰宅して自宅にいたのですが、続々と市からの警報や避難情報が入ってきたため、いつでも出られるように待機していました。日が変わる頃から、「工場の爆発があり、当直医がずっと治療対応をしている」「箭田の施設が浸水し始めている」「心配だから病院に避難したいと27名の近所の方が来たので収容している」と、立て続けに電話で報告を受けたため、急いで家を出たのが2時頃。ただ、真備に向かおうにも通行止めの橋が多く、結局、病院に入ったのは5時頃でした。
その頃、病院周辺に異変はなかったのですが、箭田を含め、近隣でいくつもの場所で浸水しているとのことで、救急に備えて外来診療を休診にする判断をしました。透析も、火・木・土のグループは透析日だったのですが、何もなければ日曜日に代替できるので、こちらも休止に。この頃は、先手を打っていると思っていたのです。
事態が変わったのが、7時頃。すぐそこの末政川が決壊して、どんどん水がやってきました。9時までに水道、電気、固定電話が止まり、携帯電話でいろんなところに物資などの救援をお願いしました。食料の備蓄は3日分。しかし、これは入院患者様と職員の人数しか考慮していないものです。この時点で31名の職員がいて、患者様と避難者さんを含めた総勢は335名。どれぐらい籠城しなければいけないか、分からない状態でした。
水が入った時点で、外来診療はできませんし、透析もストップしてしまいます。入院患者様は76名いて、まったく動くことができない寝たきりの患者様もおられました。1階が水没してしまった光景の中、重篤な患者様をどうすべきかすぐに判断しなければなりません。電気が止まってしまうと、吸引すらできなくなってしまうので。入院診療を継続することは無理だと判断し、市や県に即時情報公開して、引受先を探しました。結果、8日にピースウィンズ・ジャパンのドクターが来られ、災害派遣医療チームのDMATと連絡を重ねながら、一人ひとりの患者様の搬送先と搬送方法を決めてくださいました。
そんな混乱しかねない状況の中、全職員が一致団結して、災害に対峙してくれたことには、とても感謝しています。ドクターを中心に、患者様を救出するグループ、100名の透析患者様の行き先を探すグループ、近隣住民の方々を安全に送りだすグループができました。誰しもがこの状況を打破しなければならない、この人たちを助けなければならないと奮起してくれたのです。この動きは災害中だけでなく、以降の段階的復興の時も機能していました。事務・コメディカル系の人たちが、掃除や守衛を率先して引き受けてくれるなど、彼ら彼女らがいなければ、この災害を乗り越えられませんでした。
次第に明らかになった甚大な被害

1Fのすべてが水没し、MRIやCTなどの大型医療機器は壊滅状態。
外来診療に必要な一切合切と200台弱の情報端末なども失った。

国重事務長
私は被災時、事務長ではなくシステム管理責任者でした。実は、大雨が降っていた6日もプログラムをつくっている真っ最中。23時頃まで作業をしていたのですが、この雨では帰られなくなるということで、帰宅することにしました。
7日の朝になって想像をはるかに超えた被害が出ていることを知り、病院に駆けつけようとしましたが、自宅がある岡山方面からは通行止めばかり。高梁川を渡ることができず、一面が海のようになっている景色を茫然と見つめるだけでした。私を含め、病院にたどり付けなかった職員は、水が引くまで外からの支援を担当しました。
この時に最も気掛かりだったのは、当院の医療情報を集積している電子カルテサーバーと、PACSサーバー。2階に設置していたのですが、水が1階の天井まで来て、「2階もひょっとするとダメかもしれない」という情報を聞いたときには、頭が真っ白になりました。結果的に水没をまぬがれ、当院の医療情報は守られたのですが、これは運が良かっただけのこと。今後はクラウド化、データのバックアップ体制など、より安心できる医療システムの構築を進めていきます。
小村技師長
私は「まび記念病院」でも医療に携わっていますが、主に新倉敷駅前の地域にある「むらかみクリニック」で仕事をしています。朝、一度はまび記念病院に行こうとしたのですが、どうしても無理で、通常通りむらかみクリニックに行きました。続々と入る情報に、とてつもないことになっていることを感じていたところ、昼頃に「MRIから煙が出ている、どうすればいいのか」と理事長から電話がありました。現場では、猛烈な水蒸気に爆発の危険性を感じたそうです。急いでキヤノンメディカルシステムズさんに電話をしました。
キヤノンMS
網本さん
電話をいただいて「すぐに向かいます」とお返事したかったのですが、私の家の前の道が冠水していて、車が出せない状態。そこで、電話で詳細に状況をお聞きして、クエンチという現象と断定しました。MRIの中には液体ヘリウムが入っているのですが、それが気化すると煙のように見えるのです。「水蒸気のように見えるものは安全です。もし可能なら二次災害を防ぐためにブレーカーを切り、万が一の漏電による感電を防ぐためにも近づかないでください」とお伝えできました。
復興への原動力は、理念と日々の在り方

グループ全体で、玉島、真備、総社を面的に捉えて全世代に医療を展開していた。
地域唯一の一般病院として、復興の先頭に立つことは使命だった。

村上理事長
かかりつけ医と高度機能病院という概念を融合させた医療をしたいと、2008年に「むらかみクリニック(当時の名称は、むらかみ&とくながクリニック)」を開きました。訪問診療や地域のかかりつけ医としての役割を果たすとともに、CTや超音波装置などにより大病院並の検査を行い、患者さんにしっかりと説明できる医療を目指したのです。実際にスタートしてみると、それだけでは足りない。入院治療もしっかりしたいと思うようになりました。
開業する前に真備中央病院に勤務していた時期があったのですが、そこが経営譲渡してくれるということで、80床の病院を持つことになったのが、まび記念病院です。施設の老朽化も目立っていたので、2014年に当地に新築移転。地域医療には、診療だけではなく、介護も必要と考え、箭田に医療と介護を一体化させたクリニック併設型の介護施設をつくりました。2016年には、2009年につくった和陽会に続き、総社市にある医療法人弘友会の理事長に就任。有床診療と介護を融合させた施設ができ、「さぁ、やっと医療と介護を融合させた地域医療が展開できるぞ」と体制を整えた直後の2018年に被災したのです。
7日の昼、入院患者様と避難者の方々と同じく、私も不安と絶望が入り混じった気持ちで外に流れる濁流を見ていました。すると、とある職員が「理事長、必ず復興させますよね」と言うものですから、私はとっさに「当たり前やないか!このぐらいで負けていてどうするんだ」と返事をしました。でも、その日は、当院が陸の孤島になっていた時。思いを持って当院をつくったものの、たった4年ですべてが流されていく様子を無力に眺めているだけでしたから、この日だけは「この病院の復活はないかもしれない」と感じていました。今だから言えることです。
翌日の8日に助け出され、その日は家に帰りましたが、一晩、まったく寝られませんでした。被害もどれほどか想像もつきませんし、未来もまったく見えない状況。でも、真備でたくさんの方が亡くなられ、地域で唯一の一般病院だった当院がなくなると、この地域の医療は土台を失ってしまいます。患者さんたちの顔もたくさん思い浮かびました。
地域内で11の医療機関が閉鎖を余儀なくされている中、包括的な医療を行っている当院をなくしてはいけない、復興の先頭に立たなければならないと決断。9日には建築会社に来てもらい、復興に向けて具体的に動き出したのです。私たちは、単に診療をしているのではありません。職員も含めて、まび記念病院に携わる全員が、地域の方々の人生をサポートしているのだという思いを持って前進したのです。
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